【南禅寺】 フォトギャラリー

  ホーム > 全国観光名所制覇プロジェクト > 南禅寺

◆南禅寺の歴史

南禅寺は今から710年あまり昔の正応4年(1291年)、亀山法皇が無関普門禅師(大明国師)を開山に迎えて開創されました。

亀山法皇は建長元年(1249年)、後嵯峨上皇の皇子として誕生され、10歳にして皇位に就かれました(第90代亀山天皇)。

しかしご在位の頃より東アジアの情勢が緊迫し、上皇になられてからは蒙古来襲という国難に立ち向かわれました。

この頃、上皇は父である後嵯峨天皇が帰依されていた圓爾辧圓(えんにべんねん)禅師(無関禅師の師・聖一国師)に

受戒・問法し、不動の心を持って危機に対処されたのでした。国難去った正応2年(1289年)、上皇は離宮禅林寺殿で

落飾(出家)され、法皇になられました。諱(法名)を金剛眼と申されます。「文応皇帝外紀」によれば、まもなく離宮に

妖怪な事が起こりましたが、無関禅師は雲衲(修行僧)と共に離宮に留まり、坐禅・掃除・勤行と、禅堂そのままの生

活を送られただけで妖怪な事は終息してしまいました。法皇は禅師の徳をたたえて深く帰依され、正応4年離宮を禅寺

とされました。

                  

法皇と無関普門禅師の出会いはもっと早い時期にあったとも考えられています。

開山に迎えられた無関禅師は、その年の12月に遷化(死去)されてしまいました。

そこで翌正応5年、法皇は第2世として規庵祖圓禅師(南院国師)を選任されました。

禅寺といっても、離宮には伽藍として機能するものは一つもありませんでした。

従ってその建立が規庵禅師に課せられたわけですが、入寺からおよそ15年の歳月を費やし、暫くその完成をみるに到

ったのでした。規庵禅師が創建開山と呼ばれる理由です。伽藍のほぼ完成した嘉元3年(1305)9月15日、亀山法皇は

嵯峨の亀山殿で御歳57歳をもって崩御されました。御陵は亀山殿の跡地に建立された天龍寺境内にあります。

                  

 

◆南禅寺の沿革

当寺は、京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の大本山で、正式には瑞龍山太平興国南禅禅寺といいます。

1291年(正応4年、鎌倉時代)亀山上皇の離宮を大明国師(無関普門)に賜り禅林禅寺としたのに始まり、足利義満の時、

五山制度の中で五山を超える「五山之上」と言う禅宗寺院最高の寺格を賜り、五山文化の中心に在りました。

応仁の乱以降は衰退しましたが、江戸初期に崇伝が金地院を移入して再興をはたし、多くの文化財を今に伝えています。

伽藍は西を正面とし、背後に東山を負う。勅使門(重要文化財)は慶長度の内裏日御門を移したものである。

                        

三門(1628年、重要文化財)は五間三戸二階二重門の規模で左右に山廊をもち、禅宗(唐)様からなる三門正規の形式の

雄大な建築です。方丈(桃山期、国宝)は大方丈と小方丈からなり、大方丈は天正度の内裏清涼殿を移築したものです。

平面は6室に分かれ、中央南の御昼の間は清涼殿時代に昼の御座であった御帳の間の別称を残しており、広縁の欄間

彫刻、天井、板扉の形式とともに近世宮室建築の姿を伝えています。 内部の障壁画(重要文化財)は124面を数え、桃山

前期の狩野派の手になるとされています。また、小方丈は伏見城の遺構といわれています。 内部に探幽筆といわれる

《群虎図》(重要文化財)40枚があり、「虎の間」と呼ばれています。

                       

大方丈前面の庭園は俗に「虎の子渡しの庭」と呼ばれ、小堀遠州の作と伝えられています。

寺宝として南禅寺創建の経緯を記した〈亀山天皇宸翰禅林寺御起願文案〉(1299年、国宝)、開山の頂相《大明国師像》

(重要文化財)などがあります。塔頭のうち南禅院は亀山天皇の宸影をまつる檀那塔であるため、別格に扱われています。

また以心崇伝が住した金地院には重要文化財建築や寺宝が多く、天授庵には《細川幽斎像・同夫人像》など、聴松院には

《細川蓮丸像》、牧護庵(法皇寺)には《約翁徳倹像》の重要文化財絵画があります。             

                          

 

>>戻る